
「図太いのに繊細」「適当なのに真面目」— 私の暮らしは”振り幅”で出来ている
TOPページで触れた「試行錯誤」の裏側
「キレイ好きではない」「疲れていてもラクに戻せる」とTOPページでご紹介した「ふだんの土井けいこ」。その試行錯誤の裏側には、「図太いのに繊細」「適当なのに真面目」という、一見矛盾した私の”振り幅”が息づいています。
私は、「自己肯定感」という言葉は使いません。人から好かれなくても大丈夫。自分のことは自分で大切にできる。この確固たる軸こそが、私が「へこたれないお化け」として、常に前を向いていられる理由です。この私の“振り幅”が、どのように心の安定を生んでいるのかをお話しします。
「私が悪いんじゃない(笑)」と笑い飛ばす心の軽さ
かつて上司から言われた「君は図太いのに、妙に繊細だ」という言葉は、まさに私を言い当てています。人の言葉を気にしすぎるかと思えば、自分の信念を突き進む図太さがある。そう、矛盾が同居しているのです。
「真面目」と評されることもありますが、私は正直に言えば適当で、いいかげんな部分が多分にあります。完璧さんと言う人もいますが、それは細部にとらわれているだけ。こだわることはあっても完璧ははじめから目指さない。だから、「私が悪いんじゃない(笑)」と家事をサボる自分を許せる心の軽さはあるかな?
この適度な“いいかげんさ”が、自分を自分で認めるための余裕を生み、自分で自分の軸を支えてくれいるのです。
人から好かれなくても大丈夫な理由
仕事と人との関わりにおいても、この振り幅は活きています。人見知りだと自覚しながらも、それを上回る好奇心で初めて会う人にも話しかけてしまうのは、人から好かれることを目的としていないから、かな?
人から好かれなくても大丈夫。自分のことは自分で大切にできる。溢れるおしゃべりと共に、人の話をよくきくことも。ラジオパーソナリティの頃、ディレクターさんから、「土井さん、人の話をよく聞くんですね」って言われました。それは、相手の話に興味があるから。人の喜びが自分の喜びになるのは、「人との繋がり」が、自分自身の生きる「役割」と直結しているからです。
転んでもただでは起きない、ひこばえの精神
私って、切られても新しい芽を出すひこばえのようです。50代で体調の超低空飛行を経験したとき、自然観察に楽しみを見出したのも、転んでもただでは起きないという、私の本質的な姿勢の表れかもしれませんね。
モノとの付き合い方も柔軟に。「ここにいい具合に収まるだけ」ざっくり枠を決める。それは自由を縛る枠ではなく、自分の心地よさを教えてくれるのが枠。それがあることで枠の中は自由。
ものを愛するからこそ。「手放し」を「繋がり」に変える
既存のものを活かす哲学と、葛藤の裏側
TOPページで、「既存のものを活かすこと」を大切にしているとご紹介した「ふだんの土井けいこ」。実は、モノへの愛着が強いからこそ、私は「手放す」という難しい決断を繰り返してきました。今日は、その哲学と、手放す行為を**「人との繋がり」**に変える理由をお話しします。
「手放しても大丈夫」とすとんと来る瞬間
私は、大好きな着物や器を半減させたことを「潔い」と言われることがあります。でも実態は、まったくそんなことはありません。
決めた収納の枠からはみ出たモノを、何度も何度も手に取り、悶々としています。これは本当に手放すべきなのか、まだ自分を生かしてくれるのではないか――そんな風に考え、出したりしまったりを繰り返すのです。
でも、不思議なことに、この作業を繰り返していると、ある瞬間、「手放しても大丈夫!」とすとんと腑に落ちる時が来るのです。この葛藤を経て手放すからこそ、モノへの感謝を込めて寄付という手段を選び、「繋がり」を求めているのです。
震災の反省から生まれた「繋がり」
そして、私がモノを手放す手段として寄付を積極的に選ぶのは、単なる処分ではなく、「寄付先の人と繋がる」ことを意識しているからなんです。
震災前、仕事ばかりで地域の人との繋がりがおろそかになっていた反省が、この原点にあります。モノを介して、地域や社会と日常的に繋がっているという実感を持つこと。それが、私の心を孤立させないことに▼
「使い切る楽しみ」という循環
この「循環」の哲学は、モノを使い切る日常の工夫にも現れています。
柑橘類でマーマレードを作った後、残った果汁を入浴剤として使い切る。手間をかけて繕い(ダーニング)、修繕すれば着られるものは「先の楽しみ」として大切に保管する。これらは、モノの命を最後まで活かし切り、平穏な日常の豊かさを深く感じさせてくれる行為です。
モノを愛する気持ちは、「執着」ではなく「循環」へ、そして「自分だけ」から「誰かとの繋がり」へと昇華させることで、私たちの暮らしを豊かにし、心を安定させてくれるのです。
「無事に明日を迎えられたら」— 震災の経験から生まれた「今日を生ききる」家事
体調の超低空飛行から生まれた「時間の哲学」
TOPページでご紹介した「ふだんの土井けいこ」の裏側には、**「今日を生ききる」**という強い時間の哲学があります。これは、1995年1月17日、明日が来ないかもしれないという現実を知った経験が原点です。そして、体調の超低空飛行を経験したからこそ、私はこの哲学を徹底するようになりました。今日は、この決意から生まれた私の「時間の使い方」と「仕込み」の工夫をお話しします。
「今日できること」をするありがたさ
私は、「未来のために今頑張る」とは言いません。それよりも、今、自分の手で暮らしを整えることができるというありがたさ。この尊い「今」に集中し、「今日できることを、今日のうちにする」という決意が、私の行動の全てです。
疲れているときは「どうする?」と自分に訊くだけで、体は自然と動き出します。それは、目の前の作業が、明日への不安を鎮め、今日を生ききるための儀式だと知っているからです。
目の前の作業が「昨日の私」への労い
私の料理は素材の味を生かし、手数をかけないシンプルが基本です。しかし、そのシンプルさを実現するための「仕込み」は欠かしません。
産直の葉野菜を優しく洗い、切って冷蔵庫に収める—この「仕込み」の時間は、今という一瞬の平穏を味わい尽くすための集中時間です。玉ねぎやベーコンをハサミで切るなど、作業を最小限に抑える工夫を徹底しています。
そして、翌朝。無事に明日を迎えられたことへの感謝と共に、綺麗に整えられた台所を見ます。その時、「ああ、片付いていて気持ちがいい」と心から思うのです。それは、**昨日、今日を生ききった自分への「ご苦労さん」**という、ささやかな労いと感謝の気持ちに他なりません。
集中と既存のものを活かす哲学
TOPページで触れたように、書道や着付け、そして自然観察に夢中になるのも、集中するひとときを大切にするからです。
この「集中」の哲学は、モノとの付き合い方にも一貫しています。モノの命を最後まで活かし切ることで、平穏な日常の豊かさを深く感じさせてくれるのです。
「お節介」こそが私の役割。人が喜ぶ=私が豊かになる暮らしの設計図
自力で着付けを習得した行動力の源
「書道で着物を着たいという一心で、着付けを自力で2か月で習得した」。TOPページでご紹介したこの行動力は、「人が好き」という私のシンプルな感情に支えられています。これは究極のお節介業ですが、人が喜ぶことで私自身が豊かになる「役割の循環」こそが、私の暮らしの設計図なのです。
バングラデシュで見つけた「役割」
この「お節介」が私の生きる役割だと確信したのは、30代前半、夫の仕事に伴ってバングラデシュで専業主婦として暮らしていた頃です。
最初の8か月、私は初めての専業主婦生活で自分の役割を見つけられず、投げやりになっていました。しかし、日本からやってくるボランティアたちに、食事だけでなく「居心地のいい場所を提供する」という役目を見つけて以来、私は生き返りました。「誰かの役に立っている」という実感が、自分の存在価値を明確にしてくれたのです。
究極のお節介業「暮らしのアドバイザー」
この経験があるからこそ、「暮らしのアドバイザー」という仕事は、私にとって天職だと感じています。これは、一方的にノウハウを教えるのではなく、一人ひとりの困りごとに深く耳を傾け、その人の「ごちゃごちゃになったアタマの中」を、一緒にほぐしていく究極のお節介業です。
私の提供するノウハウの全ては、この「誰かの心に風を通す」という役割を、私が無理なく継続するために最適化されているのです。
暮らしに「風」を呼ぶもてなし
「人がたくさん来る家は用風が通り抜ける」という言葉を大切にしています。多い時は年間100人の来客があった家も、仕事の取材に来た人にも必ずごはんを一緒に作ることも、この「心の風」を途絶えさせないためです。
「手の込んだごちそう」よりも、「居心地のいい時間」を提供することこそが、最大のもてなしだと知っています。なぜなら、誰かの喜びが、そのまま私の心の豊かさに還ってくる。この循環こそが、私の暮らしを動かす設計図だからです。
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