こんにちは、暮らしのアドバイザー土井けいこです。
「暮らしがラクになる『減災収納』」。
短期集中連載、今日は4回目です。
『減災収納』という暮らし方のきっかけとなった、
阪神・淡路大震災での私の被災体験をお伝えしています。
燻されても家財道具は残った
黒煙が噴き出すのを見て
すべてをあきらめたのですが…。
結果から言えば、
「わが家」は煙に燻されながらも残りました。
地元の消防団が、
1キロ以上先の海からホースをつないで、
海水で消火活動。
そのことは噂で聞いていたものの、
10年もあとになって、事実と知りました。
あの日、黒煙を見て、全てをあきらめて避難所へ。
でも、人でごった返していて居場所がなかった。
じつは、私たちは、
日の出後に、お金とメガネを取りに部屋に戻っていました。
倒壊の恐怖感でパニックになりながら
手にしたのは通勤カバンでした。
いつもの場所でいつもの仕事鞄を手にできた。
あの状況下で、それは偶然だったのでしょうか。
持ち出せた鞄の中に車のカギが入っていたんです。
駐車場の車にはブロック塀が倒れていたのですが、
ガソリンに引火するからと
皆さんがブロック塀を持ち上げてくれて
車を出せていました。
日が暮れかけて、
東も北も火の手が上がっていて、
津波が頭をよぎったけれど
考えた末に通り慣れた海沿いの道を選び
当日の夜には神戸市役所にいました。
勤務先のビルが近くにあったんです。
地震時の車の移動は
控えなければいけないことは知っていましたが
ほかによりどころがないと思っていたから。
一週間くらいたったころ、
神戸の消防署に電話をして、
なんと、部屋が残っていることを知りました。
住人である私たちがあきらめてしまったにもかかわらず、
消防団はあきらめなかった。
写真は一年後、1996年1月17日
歩いて10分ほどの範囲が焼けてしまいました。
住んでいた建物は残りましたが…。
下の方の階の人が、焼け跡の中で独り言のように
「口紅が残った…」と、見せてくれました。
もう一度言います。
そういう中で、私の「暮らし」は壊れて燻されたけど、
燃えずに残ったのです。
残ったことで、
私は貴重な体験をすることになりました。
収納の工夫は地震対策にも有効だった!
あの朝、
夫は窓の外の阪神高速道路の明かりを見ていた。
そのとき揺れに襲われて、
揺れが止まって、気がつくと
2メートル以上飛ばされていたそうです。
私たちが住んでいたあたりは
1秒間で約80センチ横揺れがあったとか。
L字の建物の角部屋だったので、
そのせいもあったかもしれません。
人が飛ばされたのですから
組み立て家具が壊れたのは当然でした。
キッチンの棚は、自分で板を組み立てた弱いもので
金具をねじ止めした棚が金具が外れたりゆがんだりして
倒れずに崩れた。
しかし、
「もの」は以外にも無事だったのです。
家具は壊れたんですが、
それが結果的にものを救ってくれた。
急須も陶器のカップも少し欠けたくらいで、
壊れずに無事でした。
使用頻度が低いものは
扉の中に箱入りの収納をしていたのですが、
揺れで扉が開く前に、何かが扉を塞いで開かなかったのでしょう。
中の状態がほとんど変わっていなかった。
収納の地震前(左)後(右)扉の中はほぼそのままの状態
地震からひと月くらいの頃、
私は手作業で自宅の被害状況をレポートにまとめました。
そのレポートの最後を見ると、
『減災収納』がすでに始まってることがわかります。
「通路に飛び出していたもの(写真)。日の出後、現金、メガネを取に戻った。その際、収納の扉裏から防止、手袋、マフラーを手にした。同時に足元のコートをつかんで逃げる。廊下より先には入れず、現金、メガネはあきらめた。持ち出したものは、避難所の夜とても役に立った。狭いところを効率よく済むために、腰より低い収納を心がけていたことが壊滅的状況の中で生き残ったものが(以外に)あったことにつながったか。生活動線に合った定位置収納を心がけていたことが1秒を争う状況下で非常に役に立った。」
なぜ被害状況を写真に撮り、レポートを作ったのか。
自分の暮らしを撮ることに慣れていたのでしょうか?
地震後の状態を見て、
こういったことは地震対策に生かされるべきだと思った?
ただ、被害の状況を人に知ってほしかったのか。
両方だったかもしれません。
消防団の方たちの懸命の消化活動で
一度あきらめた「暮らし」を
自分の目で、手で確かめることができたんです。
しかも、テーブルに置いたフィルムが見つかり
地震の前と後の状況を検証することができた。
収納の工夫が結果として地震対策にもなっていた。
これを伝えなければいけない。
そう思ったんです。
posted : 2016年8月26日